様々な奇岩や絶景など美しい自然を楽しむことができる京丹後市の丹後町(たんごちょう)は、聖徳太子と縁の深い土地でもあります。丹後町に残る伝説とはどのようなものなのでしょうか?
京丹後市丹後町には「間人」という地名が残されていますが、なんと読むかわかりますか?かんじん?まひと?答えは、「たいざ」です。おそらく初見では読めませんよね。なぜ「間人」と書いて「たいざ」と読むのでしょうか?その理由には、聖徳太子の母・間人皇后(はしうどこうごう)と深いつながりがあります。
間人皇后(穴穂部間人皇女・あなほべのはしうどのひめみこ)は、6世紀末、大和政権の蘇我氏と物部氏との争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に身を寄せたと伝えられています。村人たちの手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。しかし村人たちは畏れ多いことから、皇后が退座したことにちなみ読み方を「たいざ」としたとされています。
「間人」が「たいざ」と読まれるようになったのには、このような訳があったんです。
間人にある奇岩「立岩(たていわ)」は、周囲が約1kmにもなる日本でも数少ない玄武岩(げんぶがん)の自然石で、日本列島が大陸から離れた頃の約1500万年前に出来た柱状の岩です。この立岩にも聖徳太子にゆかりのある伝説が残っています。
推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊という3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。やがて鬼との合戦が始まり、劣勢になり山の奥深くに逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、みせしめとして丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。今でも風の強い時や波の高い夜などは、鬼の泣き声が聞こえるといわれています。
丹後には、今回紹介した2つの伝説の他にも様々な伝説が残されています。大自然を楽しむだけでなく、丹後の歴史や伝説を学び、ゆかりの地をめぐってみたりするのも素敵ですね。
京丹後市では、地元もガイドさんによるガイドウォークなども用意されています。ぜひ、丹後の魅力を再発見してみてください。
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