皆さんこんにちは!京都大好きライター、沢本ゆきです。
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
これは小野小町が詠んだ有名な歌ですね。以前『丹後七姫伝説』のお話をしましたが、乙姫や静御前と並んで、小野小町もその七姫の一人として数えられています。今回は絶世の美女として名高い、小野小町のお話をしたいと思います。
小野小町は平安時代を代表する六歌仙の一人です。彼女と丹後にどんなゆかりがあるのでしょうか。
丹後半島のなかほどに位置する大宮町五十河(いかが)地区には、小野小町がその地で生涯を閉じたという伝承が残っています。小野小町は晩年、京の都を離れ、天橋立を目指して旅をしていました。その途中、立ち寄った五十日村で上田甚兵衛と意気投合、甚兵衛宅に泊まらせてもらい旅の疲れを癒したそうです。その時、村で火事が多くて困っているということを相談された小町は、「五十日」の「日」の字が「火」に通じることから日の字を河に改め「五十河」と呼ぶように進言したのだとか。小町のアドバイス通り改名したところ、村の火事がなくなり、女性も安産になったということです。
甚兵衛宅を後にして再び旅に出た小町でしたが、急病に見舞われ五十河の地へ戻ることになります。そして「九重の都の土とならずして はかなや我は 三重にかくれて」という辞世の句を遺してこの世を去りました。五十河にある小町公園にはお墓があり、今も小町はそこで静かに眠っているのです。
天橋立を文字通り横一文字に眺められる大内峠一字観公園には、股のぞき発祥の地の石碑が立っています。その股のぞきを初めてしたのが小野小町だと言われていますね。
天橋立から五十河へ帰る途中で腹痛に襲われ用を足した際に、着物をめくって足の間から見た天橋立の姿が素晴らしかったというお話です。それが股のぞきが有名になったきっかけと言われていますが、真偽のほどは定かではありません。
それにしても、素晴らしい歌人であった小野小町の発想がすごすぎませんか。お腹が痛いのに、美しい景色をつい見つけちゃう。普通に生活しててもつい詠んじゃう。職業病とも言うべき発想ですが、その気持ち分かります。いえ、同列に語ってしまうのはおかしいですけれど、私も街を歩いていたら無意識においしそうなものはないかな~とか、新しい話題はないかな~なんて探してしまいますし、面白そうなことについ首を突っ込んでしまいますから。小野小町を見習って、たとえ用足しの最中でも常にアンテナを張っていたいものです!